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Translate The Way of The Pinwheel

2017年10月17日火曜日

ガットバスター&コンクリートWEBショップ 4/6/15

この度はガットバスター&
コンクリートをご利用下さいまして誠に有難うございます。
下記の通りお問合せをお受けいたしました。

準備ができ次第、メールにてご返答させていただきます。しばらくお待ちください。



質問は:なぜ値段が¥18,360 (税込)なのですか?まず、風車の大きさは小さいですよ。長い刀や仕込み錫杖でさえこれほどの値段にはなりません。

納得のできる素晴らしい理由がなければこれはただ人騙しみたいなものじゃないですか? 写真の風車は良いつくりですが、全てが写真のように出来上がるわけではないですよね。最高の値段も4,000円くらいじゃないですか? C.A.Lの小道具を作っている人たちとかと交流してデザインしたんですか?

とにかくなぜ4000円ではなく2万円なのかを知りたい。

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ガットバスター&コンクリート
〒 160-0021
東京都新宿区歌舞伎町2-10-5 G1ビル5階
営業時間:11~19時(定休日:毎週日曜日)
TEL 03-5272-1121
FAX 03-5272-1121
お問合せ :koncrete@taiyo-planet.co.jp
ホームページ:http://taiyo-planet.co.jp
有限会社太陽プラネット
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返事はなかったのでこの会社は怪しい。

(有)太陽プラネット 2号 4/2/15

Leo Graf様

お問い合わせありがとうございます。

現在制作担当の職人に問い合わせ中です。
ご返信今しばらくお待ち下さいませ。

ガットバスター&コンクリート

ガットバスター&コンクリートWEBショップ 4/1/15

この度はガットバスター&
コンクリートをご利用下さいまして誠に有難うございます。
下記の通りお問合せをお受けいたしました。

準備ができ次第、メールにてご返答させていただきます。しばらくお待ちください。



拝啓

返事が来るかどうかわからない内容ですが、一応返事が来ると安心するタイプですので、返事が欲しいです。

ホームページを見ると、けっこう水戸黄門関連のグッズがありますね。黄門杖と弥七の風車、昔は助さんと格さんの刀まであったようです。弥七の風車は値段が高いですが、将来購入します。

そこで、私は新商品のアイデアを提供したいです。武器を開発しているようですので、武器のアイデアです。

まず、柘植の飛猿の独自の猿面型の小道具はたくさんの方に購入されると思います。柘植の飛猿は1000回記念、最終回、今年の2時間スペシャルの全てに出演していて(または出演予定、現在撮影を行っている)、劇でも登場しています。風車の弥七の次に人気の高いキャラクターです。お銀なども有名ですが、今はもう出演しない感じがするので... 飛猿の小道具に穴を開けたバージョンも欲しいです。手紙を差して投げることができるので、便利だと思います。

お銀の投げる小道具もあってもいいじゃないかと思います。1990年代の水戸黄門で弥七、お銀、飛猿が全員一緒に小道具を投げるシーンがありますし、やっぱり3つ全てがあったらいいんじゃないかなと思います。お銀の小道具には赤い糸が巻いてあって、時には鈴もついています。私はお銀のファンではないのですが、お銀はファンが多いのではないかな~というイメージがあります。なので、購入する人は多いと思います。

まとめますと、(風車)、投げる小道具、穴がある投げる小道具、赤い糸のある小道具、赤い糸と鈴がある小道具の全5種類が販売されたら私は水戸黄門のファンとして大喜びをします。そしてそのうちの2種類が販売されてもうれしいです。とにかく検討してください。2年かかってもいいですから、検討してください。

よろしくお願い致します。

Leo Graf

敬具

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2017年10月15日日曜日

印籠

http://www.teiocollection.com/neta/neta-01.htm

東アジアの視野から見た朱舜水研究・Study of Shu Shui from the perspective of East Asia

https://www.google.com.au/search?q=%E6%9D%BE%E4%B9%8B%E8%8D%89%E5%B0%8F%E5%85%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-b&gfe_rd=cr&ei=AWpoWLLNBqXu8we-m5DQAg&gws_rd=cr&dcr=0

http://yotoshorin.a.la9.jp/mito/

http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/02kanbun-396jyo.pdf

隅田公園(水戸徳川家下屋敷跡)


この地は江戸時代、水戸徳川家の下屋敷・小梅別邸が置かれたところである。 徳川御三家の一つである水戸家が才浜屋敷(現・中央区)に替えてこの地を賜ったのは、1693(元禄6)年、3代綱條の時である。屋敷は、西は隅田川に面し、南は北十間川をめぐらし、面積およそ66000㎡、約20万坪、南北200余、東西約300mにわたり南に広がる梯形の地で、現在の向島1丁目のほぼ大半を占め、墨田区南部におかれた大・小名屋敷80余のうちで最大の規模を誇るものであった。
1844(弘化元)年、烈公として知られる9代斉昭が藩政改革の一端から幕府の誤解を招き駒込別邸で謹慎を命じられた際、改革派の中心であり高名な水戸学者であった藤田東湖が責任の一斑を負い蟄居の日々を送ったのもこの屋敷内の長屋であった。
やがて明治維新となり、11代昭武の代を以て藩制度は解消、一時政府の管理するところとなったものの、その後改めて水戸家本邸が置かれ、当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在りし日の姿が伺える。
明治になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移した。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していたが、明治維新の混乱期や東京遷都で中断していた。1875(明治8)年花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選んだ。この時、以下の歌を詠んでいる。

花くわし 櫻もあれと 此やとの よゝのこゝろを 我はとひけり

いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌である。明治25年には昭憲皇太后も訪問している。
しかし大正12年9月、関東大震災の劫火により烏有に帰し、230年に及ぶ水戸屋敷の歴史はここで幕を閉じた。
昭和6年、帝都復興計画に基づき隅田公園が造営されると、水戸邸の旧跡は同園に取り入れられ、往時をしのぶよすがをその一角にとどめ、広く市民の憩いの場となっていた。しかしその後、半世紀近い歳月とともに環境は変化し、また第二次大戦の戦火の被害もあり、その面影もおおかた失われた。
昭和50年、この公園を管理することとなった墨田区は、昭和52年区政施行30周年を記念して改修に着手した。

黄門様

http://www.tokugawa.gr.jp/

西山荘


「水戸黄門」で知られる,水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後,元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所。
光圀公はここで『大日本史』の編さんの監修に当たりました。入口には光圀が紀州から取り寄せ,移植した熊野杉が天を覆っています。建物は茅葺き平屋建て,内部は粗壁のままで,どの部屋にも装飾はなく,書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まです。
なお,現在の建物は,文政2(1819)年に再建されたもので,春の梅,夏の新緑,秋の紅葉,冬の雪景色など,季節ごとに異なった表情が楽しめます。

 
▽「黄門様」で有名な水戸二代藩主徳川光圀公(1628~1700)は、平均寿命が一般に50歳といわれた時代に、73歳という長寿を全うされた方で、医食同源(いしょくどうげん)の思想に基づいて、食事には漢方を取り入れ、一汁三菜(いちじゅうさんさい)を基本として季節の野菜をよく食べていたそうです。
▽食に関しては特に関心が深く、若い頃から自ら「うどん」や「冷麦(ひやむぎ)」を打つのが得意であったという記録も残されています。
▽食材についても、米は常陸太田の河合米(かわいまい)、鮭は那珂川、鮎は久慈川、鯉は玉里(たまり)村というように、産地にまでこだわりをみせ、現代で言えば「地産地消」を実現されていました。
▽また、光圀公の師として江戸に招かれた明国亡命の志士朱舜水(しゅしゅんすい)とは、深い交流をもち、料理にもくわしかった朱舜水は、中国料理の白牛酪(はくぎゅうらく)(チーズの一種)・チャウツー(餃子)・火腿(かたい)(中国製ハム)・各種の牛肉料理なども、光圀公に提供してくれたようです。
▽光圀公が、好んでよく飲まれていたのが牛乳酒で、牛乳に酒と水を入れ、更に当時では大変貴重な調味料であった砂糖が加えられていたということです。
▽このような、当時の黄門光圀公の食文化の様子を記載している記録、特に『日乗上人日記(にちじょうしょうにんにっき)』や『舜水朱氏談綺(しゅんすいしゅしだんき)』、そして烈公徳川斉昭公著『食菜録(しょくさいろく)』等の文献を、水戸の調理師(昔風に言えば包丁人)故大塚屋子之吉(おおつかやねのきち)氏が長年かけて解読され調理方法の研究を重ねて、現代人の味覚に適合するように復元した料理が、現代版の「黄門料理」です。

「小野諫草」と徳川光圀

 「水戸黄門の漫遊記」

白いひげをたくわえた黄門さまが、助さん格さんという若侍(わかざむらい)をつれて国々をめぐり、いたるところで「天下の副将軍なるぞ」と悪代官をこらしめ、あわれな民百姓を助ける「水戸黄門諸国漫遊記」は、いく度も映画や講談の題材となってあきられることがありません。
 この「漫遊記」は、実は、明治二・三〇年頃、大阪の講談師によって作られた話で、実際にあったものではないのですが、それにもかかわらず、いつまでも黄門さまの人気がおとろえないのは、民衆の心理の底にある正義感や抵抗の精神が、「名君」水戸黄門こと徳川光圀の人格に託して表現されているからだろうと思います。
 江戸時代をつうじて、「名君」とたたえられる人物は数多くおりますが、徳川光圀ほどたくさんの人々の尊敬をあつめた人物はほかにいないのではないでしょうか。今でも一代の伝記や言行録は多く残っておりますが、それは水戸だけに限られず、日本中に伝えられているのです。
 けれども、言い伝え、書き伝えていくうちに、光圀の人物像はしだいに美化され、ときには偶像化されたものもあるのですが、ここでは、もっとも信頼度の高い文献によって、若き日の光圀の実像に触れてみたいと思います。

 光圀の生い立ち

徳川光圀(義公)は、長かった戦国時代の余燼(よじん)もおさまった寛永五年(一六二八)の六月十日、水戸藩初代の藩主徳川頼房の第三子(女子を加えれば第七子)として生れました。今から三五一年前ということになります。頼房は徳川家康の末息子、第十一男ですから、光圀は家康の孫にあたるわけです。
 光圀は、幼名を長丸(ちょうまる)のち千代松、九歳で元服してからは光国と名乗り、国を圀の字にあらためたのは、五十六歳頃のことのようです。生母は、家臣の谷重則のむすめで、名を久子といいました。ところが父の頼房は、なぜか光圀の出生を喜ばず、「水にせよ」と申し渡したのですが、家臣の三木仁兵衛という者の計らいで辛うじて助かり、光圀は水戸城下柵町の、三木の屋敷内で生まれ、しばらく三木夫妻の手で養育されたのです。三木の家敷跡と考えられる場所(三の丸二丁目)には、現在「義公生誕之地」と刻んだ石碑が建てられています。
 四歳までは、三木の家で普通の武士の子とかわりなく育てられておりましたが、五歳になると公子としてお城に入り、六歳のとき七歳年長の兄頼重をさしおいて世嗣(よつぎ)(次の藩主予定者)に選ばれました。そしてまもなく江戸へ上って小石川の水戸藩と本邸に入ることになります。今の後楽園野球場のあるあたりです。
 もともと後楽園というのは、水戸藩の付属の庭園の名称で、頼房が光圀の生れる前の年に着工したものです。明(めい)暦の大火(一六五七)で焼けてしまいましたので、光圀が四十二歳頃これを補修して完成させました。今でも、野球場の西側に往時をしのぶ立派な庭園の一部 -といっても野球場よりもひろい面積ですが- が残っていて、名勝史跡に指定されています。なお、後楽園という名は、中国の宋(そう)という国の范希文(はんきぶん)が政治を行なう人の心得を示した名言、「士はまさに天下の憂に先んじて憂ひ、天下の楽に後れて楽しむべし」(岳陽楼記)から採(と)ったものです。

 「かぶき者」光圀

光圀には、少年時代からたくさんエピソードが残されていますが、七歳のとき小石川藩邸近くの桜の馬場で、処刑された罪人の重い生首を闇夜に一人で引きずって帰ってきた話や、十二歳で洪水直後の浅草川(現在の隅田川)を泳ぎきるという離れ業をやってのけた話などはよく知られているものです。
 十三歳からは家臣の小野角衛門ら三名が傅(ふ)(補導役)として専心教育にあたったのですが、この時分の光圀は学問の方にはほとんど関心を示さなかったばかりか、不逞無頼(ふていぶらい)の風が強かったようです。小野角衛門の諫言(かんげん)文(いさめた文章。これが「小野諫草」です。)によれば、十六・七歳の光圀は、そのころ江戸で流行した「かぶき者」(異様な風体をして大道を横行する者)の仕草をまね、かぶき者がよくひく三味線や琴を好み、服装もいろいろ伊達(だて)に染めた木綿の小袖にビロードの襟をつけたものを着、また馬屋へも気軽に入って草履取と野卑な世間話をし、弟たちを前にしては「色好み」のことを得意げに話すなど、数々の非行で「権現様(家康)の御孫様」とはとても思えない、とまわりの人たちをあきれさせていました。父の頼房は誰よりもこうしたわが子に心をいため、熱海へ湯治に出かけた時にも十六歳の光圀をわざわざ同伴し、旅先で日ごろの行状にきびしい注意を与えたりしたのですが、親の忠告に耳を傾けようとせず、まして小野の意見など歯牙にもかけず、わがまま放題にふるまっていたようです。

 光圀の立志

ところが、光圀の心の転機は思いがけずに早く、十八歳のとき突如として到来しました。その動機については、十八歳のとき中国の「史記」という書物の、伯夷伝というところを読んで深く感銘し、兄頼重の子をあとつぎにする決心をするとともに、今まできらいだった学問にも励むようになった、と伝えられています。「史記」とは、中国古代の司馬遷(しばせん)(紀元前一四五~八六)が著した有名な歴史書です。その中の列伝(れつでん)(人臣の伝記をつらね記した記録)という部分のはじめにあるのが伯夷伝つまり伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の伝記で、ここに次のような記事があります。
 むかし、孤竹国の王子に伯夷・叔斉がおり、父は弟に国を譲りたいと思っていた。父の死後弟は兄をこえて国を継ぐのは礼に反するとして兄に譲ろうとしたが、兄も父の遺志を尊重して受けず、二人とも国外に去ったので、人々はやむなく中の子に国を継がせることにした。
 伯夷・叔斉兄弟の高潔な人柄に接した光圀は、これまでの自分の生活を顧みて強い衝撃を受け、深刻な反省の気持を抱いたのでしょう。自分の子がありながら、兄の子に家督をゆずる決心をしたのも、この兄弟の高い徳義に感銘したからにちがいありません。
 光圀は三十四歳のとき水戸藩の第二代の藩主となりますが、その家督相続にさいして光圀は兄弟たちを集め、そこで十八歳から心にきめていた宿志をうちあけ、ためらう兄頼重を説得してその子を養子にむかえ、これを育てることになります。はじめ綱方(つなかた)をむかえたのですが、およそ十年後に病死しましたので、弟の綱条(つなえだ)を養子としました。 この綱条は、光圀が六十三歳で太田の西山荘に隠居したあと、第三代の藩主となる人です。光圀は実に四十六年ぶりにようやく初一念を果しえたわけでこれは強靭(きょうじん)な意志力をもった光圀だからこそできたことではないでしょうか。

 光圀と「大日本史」

ところで、学問に志をたててからの光圀の勉強ぶりはまことに目ざましいものでした。十九歳になると、先生格の人見ト幽(ひとみぼくゆう)・辻了的(つじりょうてき)といった学者との交際がにわかに活発となり、その年早くも人見を京都につかわし書物を収集させたりしています。人見は、公家の邸宅などをまわり、古典の筆写に努めていたのですが、その一人冷泉為景(れいぜいためかげ)が人見から聞いた光圀は、毎日古書をひもとき、和歌の道に励む、向学心旺盛な青年でした。二十歳を迎えた年の七夕の日には、大志をいだいて学問の成就を天に祈るほど、精神的に飛躍をとげていたのです。
 このような光圀の姿は、つい三・四年前の小野角衛門の諫言からは想像できないことでした。やがて小野が職を辞して水戸へ帰ることになったとき、光圀は「忘るなよつらねし袖をわかつともおもふこころははなれし物を」と歌を詠んで送りました。少年時代に受けた深い恩を決して忘れていませんでした。
 光圀は、日本でも「史記」のような立派な歴史書があれば、後世の人々を発奮させることができるだろうと考え、三十歳からそのための編さん局を設けました。はじめ駒込の別邸におかれましたが、十五年後に小石川の本邸に移し、彰考館と名付けられました。京都をはじめ各地から優秀な学者を多数まねいて編集に当たらせたのです。その歴史書は「大日本史」として有名ですが、完成したのは何と明治三十九年のことで、実に二五○年の歳月を要したわけです。しかしそれは、強い精神力をもった光圀にいかにもふさわしい大事業だったといえましょう。
 茨城大学教育学部教授 鈴木暎一

水戸黄門は全国漫遊はしていないが、その本質を知る

TV放送で依然人気のある「水戸黄門」。
 実際には、全国漫遊をしていないことは周知のとおりであるが、何故このように全国を漫遊する物語が出来たのであろうか?
 中央学院大学重松一義教授書から紹介することにしよう。

 ズハリ言って、日光・潮来・房総・伊豆・鎌倉等関東一円の小さな旅はあるが、全国を漫遊したことは一度もないのである。
 ただ、このなうな筋書きの話しが、後の世になってできるそれなりの理由と人柄があったといえる。
 水戸黄門は9歳で元服して光国(のち光圀)というが、「桃源遺事」(とうげんいじ)という水戸藩の史書では、ヤンチャで勇気ある少年であったことが記されている。
 特に13歳から17歳ごろまでは、当時江戸で流行る「かぶき者」(異様な風体の遊び人風)の仕草を真似、夜遊びに出かけ、三味線を弾いたりで、『小野諫草』(おのいさめぐさ)でしられるように、家臣小野角右衛門言員(ときかず)がこれを強く諌めたが、効き目がなかったといわれている。

 このため「権現様(家康)の御孫様とは思われぬ」と、悪い噂の非行少年のようなものであった。

 しかし18歳のとき、司馬遷の『史記』の『伯夷伝』(はくい)に感銘、父子の道・聖賢の道が何であるかにハッと目覚め、深い反省とともに学問の道へと大きな変身をみせているのである。
 
 30歳となった明暦3年(1657)のとき、駒込に彰考館(しょうこうかん)と名付ける歴史の編纂所を設け、、『大日本史』の編纂を始め、「歴史を通じて正邪のけじめ、君臣のけじめをつける」という考え方を一層固めていっている。

 光圀は34歳のとき、父頼房(よりふさ)の跡を継ぎ、第二代の水戸藩主となり、約30年間水戸藩を治めているが、この間も『大日本史』の編纂継続のほか、民情をよく察知し、今に残る笠原水道を城下に引き入れたことは、水戸の人が永く讃えている功積なのである。
 このほか、いかがわしい寺社の取り壊しや、率先して節約に励んだことも知られている。

 晩年、隠居して「黄門」「こ゜老公」などと呼ばれ、今日のTVにも「天下の副将軍水戸光圀公なるぞ」と格さんが葵のご紋が入った印籠を掲げ、悪代官を懲らしめ、哀れな農民や身売り娘を助けなど、『水戸黄門諸国漫遊記』として画面で大活躍しているが、これは隠居の光圀を水戸天神林の百姓爺とし、従者の佐々木助三郎・渥美格之進を「助さん」「格さん」とした、明治21年(1888)ごろの大阪講談師玉田玉智(たまだぎょくち)の作とも、明治37年(1904)ごろの同じく大阪の講談師日本亭丸勝の作ともいわれるものなのである。

 それはいうまでもなく『大日本史』の編纂を手伝い、諸国に史料の収集に出かけた人をモデルに、庶民が期待する名君像、“正義の味方光国”らしい善を勧め悪を懲らしめる理想のご政道を、漫遊記とした作り話なのである。