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2025年3月31日月曜日

神田沙也加と水戸黄門フーガ風メドレー:歌と沈黙の狭間で | Remembering Sayaka Kanda: The Voice of Frozen's Anna in Japan and Her Musical Legacy

 親愛なる風車の仲間たちへ、

今日は神田沙也加さんの芸術性と遺産を称える特別な二つの映像作品をご紹介します。彼女の才能と「水戸黄門」への深い愛情を反映したこれらの作品は、私たちの心に長く残るでしょう。

【映像1】初めてのマスタリングプロジェクト:神田沙也加×イディナ・メンゼル(2014年デュエット)


 

これは2016年末に手掛けた私の初めてのマスタリングプロジェクトです。神田沙也加さんと「アナと雪の女王」原語版エルサ役のイディナ・メンゼルによる2014年のデュエット曲を特別な形で収録しました。神田さんの悲劇的な別れを受けて、今までプライベートに保管していたこの作品を共有することにしました。

マスタリングについて:

  • 2016年にVAIO SonicStage Mastering Studioを使用して録音・マスタリング
  • イヤホンのみでモニタリングしたため、低音が強調されています
  • Waves RBassプラグインを使用して低周波数を強化
  • 技術的には完璧ではありませんが、私の音響エンジニアとしての旅の始まりを記念する作品です

神田沙也加さんについて: 神田沙也加さん(1986-2021)は才能溢れる日本の声優・歌手で、ディズニーの「アナと雪の女王」の日本語吹き替えでアナ役を演じたことでよく知られています。原語版でエルサを演じたイディナ・メンゼルと完璧に調和した彼女の声は、多くのファンの心を捉えました。

このリリースは、神田さんの芸術性と彼女が世界中のファンに与えた影響への個人的な敬意を表するものです。このマスターには技術的な欠点があるかもしれませんが、その背後にある記憶と感情は意味深いものであり続けます。

【映像2】神田沙也加と水戸黄門フガート・メドレー:歌と沈黙の狭間で


 

この作品は、「水戸黄門」への深い敬愛を抱いていた神田沙也加さんへのオマージュです。彼女は単なる出演者ではなく、生涯にわたる「水戸黄門」の愛好家でした。彼女のブログで語られていたように、「小さい頃から和室で祖母と祖父と一緒に見て、水戸黄門が大好きでした」。5歳の時には、由美かおる演じる女忍者のお銀のキャラクターに魅了されていたそうです。神田さんにとって、その世界の一部になることは神秘的であり、深く名誉なことでした。

この映像では、神田さんによる力強い「水戸黄門」テーマソングの演奏が、正義、回復力、そして抑圧に立ち向かう精神を体現しています。彼女の声は、見えない闘いの中にいる人々への呼びかけとなり、公的な姿と私的な痛みの間の線が曖昧になる業界での苦闘を反映しています。

神田さんの「水戸黄門」との繋がりを通じてのこの旅に参加していただき、ありがとうございます。彼女の物語があなたの心に響いたならば、シリーズや神田さんの演技についてのあなた自身の思い出を以下のコメントで共有してください。風車の八七研究会のコミュニティは、この愛されるショーに命を吹き込んだ人々の遺産を称え続けています。

これらのテーマのさらなる探求やより多くのコンテンツについては、私たちのブログをご覧ください。

沈黙のポリティクス:表現されない苦悩

芸能界における「沈黙のポリティクス」は、特に女性アーティストにとって二重の抑圧として機能する。神田の公的イメージと私的現実の間に存在した緊張関係は、日本社会における「我慢強さ」の美徳がいかに自己表現の抑制と結びついているかを示している。Butler(1999)が論じるように、パフォーマティビティの概念は単に舞台上の演技にとどまらず、日常生活における自己呈示にまで及ぶ。神田の場合、彼女のパブリックペルソナは、Fan(2017)が「二重の意識」と呼ぶものを体現していた—内面の現実と外部からの期待の間で絶えず交渉する自己の分裂状態である。

強制的統制の力学:見えない鎖

親密な関係における権力の非対称性は、多くの場合、物理的暴力よりも微妙で検出が困難な形で現れる。Stark(2007)が「強制的統制」として理論化したこの現象は、神田の「水戸黄門」テーマソングの正義と抵抗の精神との対比を通じて考察することができる。強制的統制は、ガスライティング、孤立化、経済的・社会的資源へのアクセス制限などを通じて、被害者の行動範囲と自己認識を徐々に縮小させる。

芸能界という高度に構造化された環境では、このような統制のパターンが制度的に強化されることがある。Yoshihama(2021)の研究が示すように、日本社会では親密なパートナーによる心理的支配が「愛情の表現」または「保護」として誤って解釈されることがあり、その有害性が社会的に認識されにくい。特に芸能人のように公的監視下にある女性にとって、私的関係における支配は公的ペルソナの維持という圧力によってさらに複雑化する。

歌声に込められた正義への呼びかけは、このような見えない抑圧に対する象徴的な抵抗として解釈できる。彼女の「水戸黄門」における演技は、権力の不均衡に立ち向かう物語の一部であり、彼女自身の経験との共鳴を暗示している可能性がある。

言葉の重み:言語的暴力と強制

言語的暴力と強制は、親密な関係における支配の重要な手段である。神田の芸術表現を通じて、私たちは言葉が持つ二重の力—解放と抑圧の両方の可能性—を考察することができる。Butler(1997)が「触発する言葉」で論じているように、言語は単なるコミュニケーション手段ではなく、社会的現実を構築し、個人のアイデンティティを形成する力を持つ。

芸能界では、言葉による評価が個人の価値と直接結びつけられることが多い。批評、SNSのコメント、タブロイド報道などは、アーティストの自己認識に深く影響する。神田の場合、彼女の実力と外見、家族の名声と個人の才能についての絶え間ない言説が、彼女の公的・私的アイデンティティの形成においていかなる役割を果たしたかを考える必要がある。

Matsui(2015)は、日本のエンターテイメント産業における「言語的規律化」について、特に女性アーティストの身体と行動に関する厳格な規範の維持に言語がどのように使用されるかを分析している。この観点から見ると、「水戸黄門」テーマソングの演奏は、彼女に課せられた言語的制約への抵抗の一形態として理解することができる。

トラウマの商品化と消費

現代のメディア環境では、アーティストの個人的苦悩が消費財として流通する。神田の悲劇は、Sontag(2003)が警告した「他者の苦痛を見ること」の倫理的問題を喚起する。視聴者は彼女の物語を消費しながらも、その構造的要因に対する批判的考察を怠りがちである。この「トラウマの商品化」は、Chouliaraki(2013)の「遠隔の苦痛のスペクタクル化」の概念と共鳴し、真の共感と表面的な感情消費の境界を曖昧にする。

社会的期待の重量:ジェンダー化された抑圧

日本社会におけるジェンダー規範は、女性アーティストに特有の負担を課す。上野(2018)が指摘するように、「良い女」の理想は、特に公人である女性アーティストにとって抑圧的な枠組みとなる。神田のキャリアは、才能と従順さ、自己表現と自己抑制の間の継続的な緊張関係によって特徴づけられていた。この二重拘束は、Matsui(2002)が「日本のフェミニティの矛盾した期待」と名付けた現象の実例である。

依存と自立の文化的力学

日本社会における依存(甘え)と自立の複雑な関係性は、親密な関係における権力バランスに重要な影響を及ぼす。Doi(1971)の「甘えの構造」が示すように、相互依存は日本の人間関係の重要な側面である一方、特にジェンダー化された文脈ではこれが不均衡な依存と支配の構造に変質することがある。

芸能界では、この依存の力学がさらに複雑化する。アーティストはマネージャー、プロデューサー、ファンとの関係において多層的な依存を経験し、それが自律性の制限につながることがある。神田の場合、彼女の芸術的表現と個人的自由は、これらの依存関係によってどのように形作られ、あるいは制約されていたのかを考察する必要がある。

Kondo(1990)は、日本における「自己」の概念が本質的に関係性に埋め込まれていることを指摘している。この観点から見ると、神田の「水戸黄門」への愛着と出演は、単なる職業的選択ではなく、幼少期からの関係性(祖父母との視聴経験)に根ざしたアイデンティティの表現としても理解できる。同時に、この関係性に埋め込まれた自己は、期待と義務の網の目の中で自律性を確保するという課題に直面する。

パラソーシャル関係の複雑性

ファンと芸能人の間に形成される「パラソーシャル関係」(Horton & Wohl, 1956)は、神田の事例において特に複雑である。パラソーシャル関係とは、メディアを介してファンが有名人に対して形成する一方的な感情的つながりのことです。多くのファンは彼女の声優としての仕事(特に「アナと雪の女王」のアナ役)や「水戸黄門」への出演を通じて、彼女に深い親近感を抱いていました。しかし、この親密さの感覚には根本的な非対称性があります。ファンは神田の公的イメージや演技を通じて彼女を「知っている」と感じる一方で、彼女の日常生活や内面の葛藤については実質的に何も知らないのです。

現代のメディア環境がこの錯覚をさらに強化している。ソーシャルメディアやインタビュー、ブログなどを通じて、ファンは神田の生活に「アクセス」していると感じるようになりますが、それは実際にはキュレーションされた自己表現に過ぎません。

この擬似的な親密さがもたらす問題の一つは、ファンが芸能人の苦悩を「所有」しようとする欲望です。神田の悲劇的な死の後、多くのファンは深い喪失感を表明しましたが、その反応の中には彼女の苦しみを自分たちの感情的な体験として消費するという側面も存在していました。ファンは彼女の死を個人的な喪失として経験する一方で、彼女が直面していた実際の課題や苦悩の複雑さに対する理解は限られていたのです。

このようなパラソーシャル関係の複雑性は、芸能人に対して過度な期待や責任を課すことにもつながります。ファンは神田に対して「本物の自分」を見せることを期待する一方で、その「本物」が自分たちの想像や期待に沿わない場合には失望することがあります。これは芸能人にとって、常に「真正さ」と「期待に応えること」の間の難しいバランスを取ることを強いる圧力となります。

神田の事例は、パラソーシャル関係が芸能人に及ぼす影響と、そのようなつながりがファンの感情的体験をどのように形作るかについての重要な洞察を提供しています。彼女の声と沈黙の両方が、このような複雑な関係性の中で解釈され、消費されていたのです。

脱出路の必要性:自己保存としての離脱

いかなる抑圧的状況においても、脱出路の存在は生存にとって不可欠である。Herman(2015)が示すように、トラウマからの回復の第一段階は安全の確立である。神田の悲劇は、内的・外的プレッシャーが過度に蓄積した際に、適切な脱出路が欠如していた可能性を示唆している。

芸能界では、契約上の義務、公的イメージの維持、経済的責任などが、有害な状況からの離脱を困難にする要因となりうる。Koga(2020)は、日本の芸能産業における「退出障壁」の構造的分析を行い、特に女性アーティストが直面する離脱の困難さを指摘している。

脱出路の確保は単なる個人的責任ではなく、社会的・制度的課題である。支援ネットワークの欠如、スティグマへの恐れ、経済的依存などの要因が、有害な状況からの脱出を妨げる。「水戸黄門」テーマソングに象徴される正義の精神は、このような構造的制約の中で自己保存の手段を確保することの重要性を想起させる。

産業構造と精神的健康

エンターテイメント業界の構造的特性は、アーティストの精神的健康に独特の課題をもたらす。高度な競争、不安定な雇用、プライバシーの欠如、そして常に評価にさらされる状態は、精神的健康リスクを高める。Nakamura(2019)の研究によれば、日本の芸能産業では、精神的健康の問題が依然としてタブー視される傾向があり、適切な支援システムが不足している。

神田の場合、彼女の多面的なキャリア(声優、俳優、歌手としての活動)は、多方面からの期待と成功への圧力をもたらしたと考えられる。業界の構造的問題と個人的脆弱性の交差は、適切な支援システムの必要性を浮き彫りにする。

トラウマインフォームド社会に向けて

神田の物語から学ぶべき重要な教訓は、トラウマインフォームドな社会構築の必要性である。これは単に個人的なケアの問題ではなく、Bloom(2013)が主張するように、「安全、信頼、選択、協働、エンパワーメント」の原則に基づいた制度的変革を要求する。芸能産業においては、Herman(2015)の「トラウマとリカバリー」の枠組みを適用し、アーティストの自律性を尊重する新たな実践が必要である。

トラウマインフォームドなアプローチは、単に危機への対応ではなく、予防的な環境づくりを重視する。これには、芸能界における権力関係の透明化、心理的安全性の確保、そして同意と自律性を尊重する文化の醸成が含まれる。神田の「水戸黄門」への愛着に見られる正義への憧れは、このような変革への願望を象徴していると解釈できる。

結論:沈黙を破る声

神田沙也加の声と彼女の沈黙の両方が、日本社会における構造的課題に対する強力な批評となっている。この「水戸黄門」テーマソングの演奏は、正義への渇望と抑圧への抵抗を象徴するが、同時に彼女自身の複雑な現実と向き合うことの難しさも示唆している。真の変革は、個人的な悲劇を超えて、その背後にある社会構造的要因を認識し、対応することから始まる。神田の遺産を称えることは、彼女の芸術性を称えるだけでなく、彼女の経験が照らし出す社会的課題に向き合うことでもある。

 特典: MUSICALOID #38 Act.3 歌ってみたCD「1%」/ 神田沙也加


 

2017年10月17日火曜日

ガットバスター&コンクリートWEBショップ 4/6/15

この度はガットバスター&
コンクリートをご利用下さいまして誠に有難うございます。
下記の通りお問合せをお受けいたしました。

準備ができ次第、メールにてご返答させていただきます。しばらくお待ちください。



質問は:なぜ値段が¥18,360 (税込)なのですか?まず、風車の大きさは小さいですよ。長い刀や仕込み錫杖でさえこれほどの値段にはなりません。

納得のできる素晴らしい理由がなければこれはただ人騙しみたいなものじゃないですか? 写真の風車は良いつくりですが、全てが写真のように出来上がるわけではないですよね。最高の値段も4,000円くらいじゃないですか? C.A.Lの小道具を作っている人たちとかと交流してデザインしたんですか?

とにかくなぜ4000円ではなく2万円なのかを知りたい。

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ガットバスター&コンクリート
〒 160-0021
東京都新宿区歌舞伎町2-10-5 G1ビル5階
営業時間:11~19時(定休日:毎週日曜日)
TEL 03-5272-1121
FAX 03-5272-1121
お問合せ :koncrete@taiyo-planet.co.jp
ホームページ:http://taiyo-planet.co.jp
有限会社太陽プラネット
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返事はなかったのでこの会社は怪しい。

(有)太陽プラネット 2号 4/2/15

Leo Graf様

お問い合わせありがとうございます。

現在制作担当の職人に問い合わせ中です。
ご返信今しばらくお待ち下さいませ。

ガットバスター&コンクリート

ガットバスター&コンクリートWEBショップ 4/1/15

この度はガットバスター&
コンクリートをご利用下さいまして誠に有難うございます。
下記の通りお問合せをお受けいたしました。

準備ができ次第、メールにてご返答させていただきます。しばらくお待ちください。



拝啓

返事が来るかどうかわからない内容ですが、一応返事が来ると安心するタイプですので、返事が欲しいです。

ホームページを見ると、けっこう水戸黄門関連のグッズがありますね。黄門杖と弥七の風車、昔は助さんと格さんの刀まであったようです。弥七の風車は値段が高いですが、将来購入します。

そこで、私は新商品のアイデアを提供したいです。武器を開発しているようですので、武器のアイデアです。

まず、柘植の飛猿の独自の猿面型の小道具はたくさんの方に購入されると思います。柘植の飛猿は1000回記念、最終回、今年の2時間スペシャルの全てに出演していて(または出演予定、現在撮影を行っている)、劇でも登場しています。風車の弥七の次に人気の高いキャラクターです。お銀なども有名ですが、今はもう出演しない感じがするので... 飛猿の小道具に穴を開けたバージョンも欲しいです。手紙を差して投げることができるので、便利だと思います。

お銀の投げる小道具もあってもいいじゃないかと思います。1990年代の水戸黄門で弥七、お銀、飛猿が全員一緒に小道具を投げるシーンがありますし、やっぱり3つ全てがあったらいいんじゃないかなと思います。お銀の小道具には赤い糸が巻いてあって、時には鈴もついています。私はお銀のファンではないのですが、お銀はファンが多いのではないかな~というイメージがあります。なので、購入する人は多いと思います。

まとめますと、(風車)、投げる小道具、穴がある投げる小道具、赤い糸のある小道具、赤い糸と鈴がある小道具の全5種類が販売されたら私は水戸黄門のファンとして大喜びをします。そしてそのうちの2種類が販売されてもうれしいです。とにかく検討してください。2年かかってもいいですから、検討してください。

よろしくお願い致します。

Leo Graf

敬具

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2017年10月15日日曜日

印籠

http://www.teiocollection.com/neta/neta-01.htm

東アジアの視野から見た朱舜水研究・Study of Shu Shui from the perspective of East Asia

https://www.google.com.au/search?q=%E6%9D%BE%E4%B9%8B%E8%8D%89%E5%B0%8F%E5%85%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-b&gfe_rd=cr&ei=AWpoWLLNBqXu8we-m5DQAg&gws_rd=cr&dcr=0

http://yotoshorin.a.la9.jp/mito/

http://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/02kanbun-396jyo.pdf

隅田公園(水戸徳川家下屋敷跡)


この地は江戸時代、水戸徳川家の下屋敷・小梅別邸が置かれたところである。 徳川御三家の一つである水戸家が才浜屋敷(現・中央区)に替えてこの地を賜ったのは、1693(元禄6)年、3代綱條の時である。屋敷は、西は隅田川に面し、南は北十間川をめぐらし、面積およそ66000㎡、約20万坪、南北200余、東西約300mにわたり南に広がる梯形の地で、現在の向島1丁目のほぼ大半を占め、墨田区南部におかれた大・小名屋敷80余のうちで最大の規模を誇るものであった。
1844(弘化元)年、烈公として知られる9代斉昭が藩政改革の一端から幕府の誤解を招き駒込別邸で謹慎を命じられた際、改革派の中心であり高名な水戸学者であった藤田東湖が責任の一斑を負い蟄居の日々を送ったのもこの屋敷内の長屋であった。
やがて明治維新となり、11代昭武の代を以て藩制度は解消、一時政府の管理するところとなったものの、その後改めて水戸家本邸が置かれ、当時は最後の将軍徳川慶喜もよく来ていたようで、数多くの写真が残されており、立派な門や洋風建築が建てられていた在りし日の姿が伺える。
明治になり、明治天皇がそれまでの都を京都から江戸に移した。天皇家では、平安時代から宮中の花宴を代々開催していたが、明治維新の混乱期や東京遷都で中断していた。1875(明治8)年花宴の再開において、明治天皇は東京で初めて行う花宴の会場に、この墨堤の水戸徳川家小梅邸を選んだ。この時、以下の歌を詠んでいる。

花くわし 櫻もあれと 此やとの よゝのこゝろを 我はとひけり

いかにも王政復古の気負いに満ちた若い帝の歌で、新都の歴史を訪ねたという歌である。明治25年には昭憲皇太后も訪問している。
しかし大正12年9月、関東大震災の劫火により烏有に帰し、230年に及ぶ水戸屋敷の歴史はここで幕を閉じた。
昭和6年、帝都復興計画に基づき隅田公園が造営されると、水戸邸の旧跡は同園に取り入れられ、往時をしのぶよすがをその一角にとどめ、広く市民の憩いの場となっていた。しかしその後、半世紀近い歳月とともに環境は変化し、また第二次大戦の戦火の被害もあり、その面影もおおかた失われた。
昭和50年、この公園を管理することとなった墨田区は、昭和52年区政施行30周年を記念して改修に着手した。

黄門様

http://www.tokugawa.gr.jp/

西山荘


「水戸黄門」で知られる,水戸藩二代目藩主・徳川光圀公が藩主の座を退いた後,元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所。
光圀公はここで『大日本史』の編さんの監修に当たりました。入口には光圀が紀州から取り寄せ,移植した熊野杉が天を覆っています。建物は茅葺き平屋建て,内部は粗壁のままで,どの部屋にも装飾はなく,書斎も丸窓だけの三畳間と質素な佇まです。
なお,現在の建物は,文政2(1819)年に再建されたもので,春の梅,夏の新緑,秋の紅葉,冬の雪景色など,季節ごとに異なった表情が楽しめます。

 
▽「黄門様」で有名な水戸二代藩主徳川光圀公(1628~1700)は、平均寿命が一般に50歳といわれた時代に、73歳という長寿を全うされた方で、医食同源(いしょくどうげん)の思想に基づいて、食事には漢方を取り入れ、一汁三菜(いちじゅうさんさい)を基本として季節の野菜をよく食べていたそうです。
▽食に関しては特に関心が深く、若い頃から自ら「うどん」や「冷麦(ひやむぎ)」を打つのが得意であったという記録も残されています。
▽食材についても、米は常陸太田の河合米(かわいまい)、鮭は那珂川、鮎は久慈川、鯉は玉里(たまり)村というように、産地にまでこだわりをみせ、現代で言えば「地産地消」を実現されていました。
▽また、光圀公の師として江戸に招かれた明国亡命の志士朱舜水(しゅしゅんすい)とは、深い交流をもち、料理にもくわしかった朱舜水は、中国料理の白牛酪(はくぎゅうらく)(チーズの一種)・チャウツー(餃子)・火腿(かたい)(中国製ハム)・各種の牛肉料理なども、光圀公に提供してくれたようです。
▽光圀公が、好んでよく飲まれていたのが牛乳酒で、牛乳に酒と水を入れ、更に当時では大変貴重な調味料であった砂糖が加えられていたということです。
▽このような、当時の黄門光圀公の食文化の様子を記載している記録、特に『日乗上人日記(にちじょうしょうにんにっき)』や『舜水朱氏談綺(しゅんすいしゅしだんき)』、そして烈公徳川斉昭公著『食菜録(しょくさいろく)』等の文献を、水戸の調理師(昔風に言えば包丁人)故大塚屋子之吉(おおつかやねのきち)氏が長年かけて解読され調理方法の研究を重ねて、現代人の味覚に適合するように復元した料理が、現代版の「黄門料理」です。

「小野諫草」と徳川光圀

 「水戸黄門の漫遊記」

白いひげをたくわえた黄門さまが、助さん格さんという若侍(わかざむらい)をつれて国々をめぐり、いたるところで「天下の副将軍なるぞ」と悪代官をこらしめ、あわれな民百姓を助ける「水戸黄門諸国漫遊記」は、いく度も映画や講談の題材となってあきられることがありません。
 この「漫遊記」は、実は、明治二・三〇年頃、大阪の講談師によって作られた話で、実際にあったものではないのですが、それにもかかわらず、いつまでも黄門さまの人気がおとろえないのは、民衆の心理の底にある正義感や抵抗の精神が、「名君」水戸黄門こと徳川光圀の人格に託して表現されているからだろうと思います。
 江戸時代をつうじて、「名君」とたたえられる人物は数多くおりますが、徳川光圀ほどたくさんの人々の尊敬をあつめた人物はほかにいないのではないでしょうか。今でも一代の伝記や言行録は多く残っておりますが、それは水戸だけに限られず、日本中に伝えられているのです。
 けれども、言い伝え、書き伝えていくうちに、光圀の人物像はしだいに美化され、ときには偶像化されたものもあるのですが、ここでは、もっとも信頼度の高い文献によって、若き日の光圀の実像に触れてみたいと思います。

 光圀の生い立ち

徳川光圀(義公)は、長かった戦国時代の余燼(よじん)もおさまった寛永五年(一六二八)の六月十日、水戸藩初代の藩主徳川頼房の第三子(女子を加えれば第七子)として生れました。今から三五一年前ということになります。頼房は徳川家康の末息子、第十一男ですから、光圀は家康の孫にあたるわけです。
 光圀は、幼名を長丸(ちょうまる)のち千代松、九歳で元服してからは光国と名乗り、国を圀の字にあらためたのは、五十六歳頃のことのようです。生母は、家臣の谷重則のむすめで、名を久子といいました。ところが父の頼房は、なぜか光圀の出生を喜ばず、「水にせよ」と申し渡したのですが、家臣の三木仁兵衛という者の計らいで辛うじて助かり、光圀は水戸城下柵町の、三木の屋敷内で生まれ、しばらく三木夫妻の手で養育されたのです。三木の家敷跡と考えられる場所(三の丸二丁目)には、現在「義公生誕之地」と刻んだ石碑が建てられています。
 四歳までは、三木の家で普通の武士の子とかわりなく育てられておりましたが、五歳になると公子としてお城に入り、六歳のとき七歳年長の兄頼重をさしおいて世嗣(よつぎ)(次の藩主予定者)に選ばれました。そしてまもなく江戸へ上って小石川の水戸藩と本邸に入ることになります。今の後楽園野球場のあるあたりです。
 もともと後楽園というのは、水戸藩の付属の庭園の名称で、頼房が光圀の生れる前の年に着工したものです。明(めい)暦の大火(一六五七)で焼けてしまいましたので、光圀が四十二歳頃これを補修して完成させました。今でも、野球場の西側に往時をしのぶ立派な庭園の一部 -といっても野球場よりもひろい面積ですが- が残っていて、名勝史跡に指定されています。なお、後楽園という名は、中国の宋(そう)という国の范希文(はんきぶん)が政治を行なう人の心得を示した名言、「士はまさに天下の憂に先んじて憂ひ、天下の楽に後れて楽しむべし」(岳陽楼記)から採(と)ったものです。

 「かぶき者」光圀

光圀には、少年時代からたくさんエピソードが残されていますが、七歳のとき小石川藩邸近くの桜の馬場で、処刑された罪人の重い生首を闇夜に一人で引きずって帰ってきた話や、十二歳で洪水直後の浅草川(現在の隅田川)を泳ぎきるという離れ業をやってのけた話などはよく知られているものです。
 十三歳からは家臣の小野角衛門ら三名が傅(ふ)(補導役)として専心教育にあたったのですが、この時分の光圀は学問の方にはほとんど関心を示さなかったばかりか、不逞無頼(ふていぶらい)の風が強かったようです。小野角衛門の諫言(かんげん)文(いさめた文章。これが「小野諫草」です。)によれば、十六・七歳の光圀は、そのころ江戸で流行した「かぶき者」(異様な風体をして大道を横行する者)の仕草をまね、かぶき者がよくひく三味線や琴を好み、服装もいろいろ伊達(だて)に染めた木綿の小袖にビロードの襟をつけたものを着、また馬屋へも気軽に入って草履取と野卑な世間話をし、弟たちを前にしては「色好み」のことを得意げに話すなど、数々の非行で「権現様(家康)の御孫様」とはとても思えない、とまわりの人たちをあきれさせていました。父の頼房は誰よりもこうしたわが子に心をいため、熱海へ湯治に出かけた時にも十六歳の光圀をわざわざ同伴し、旅先で日ごろの行状にきびしい注意を与えたりしたのですが、親の忠告に耳を傾けようとせず、まして小野の意見など歯牙にもかけず、わがまま放題にふるまっていたようです。

 光圀の立志

ところが、光圀の心の転機は思いがけずに早く、十八歳のとき突如として到来しました。その動機については、十八歳のとき中国の「史記」という書物の、伯夷伝というところを読んで深く感銘し、兄頼重の子をあとつぎにする決心をするとともに、今まできらいだった学問にも励むようになった、と伝えられています。「史記」とは、中国古代の司馬遷(しばせん)(紀元前一四五~八六)が著した有名な歴史書です。その中の列伝(れつでん)(人臣の伝記をつらね記した記録)という部分のはじめにあるのが伯夷伝つまり伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の伝記で、ここに次のような記事があります。
 むかし、孤竹国の王子に伯夷・叔斉がおり、父は弟に国を譲りたいと思っていた。父の死後弟は兄をこえて国を継ぐのは礼に反するとして兄に譲ろうとしたが、兄も父の遺志を尊重して受けず、二人とも国外に去ったので、人々はやむなく中の子に国を継がせることにした。
 伯夷・叔斉兄弟の高潔な人柄に接した光圀は、これまでの自分の生活を顧みて強い衝撃を受け、深刻な反省の気持を抱いたのでしょう。自分の子がありながら、兄の子に家督をゆずる決心をしたのも、この兄弟の高い徳義に感銘したからにちがいありません。
 光圀は三十四歳のとき水戸藩の第二代の藩主となりますが、その家督相続にさいして光圀は兄弟たちを集め、そこで十八歳から心にきめていた宿志をうちあけ、ためらう兄頼重を説得してその子を養子にむかえ、これを育てることになります。はじめ綱方(つなかた)をむかえたのですが、およそ十年後に病死しましたので、弟の綱条(つなえだ)を養子としました。 この綱条は、光圀が六十三歳で太田の西山荘に隠居したあと、第三代の藩主となる人です。光圀は実に四十六年ぶりにようやく初一念を果しえたわけでこれは強靭(きょうじん)な意志力をもった光圀だからこそできたことではないでしょうか。

 光圀と「大日本史」

ところで、学問に志をたててからの光圀の勉強ぶりはまことに目ざましいものでした。十九歳になると、先生格の人見ト幽(ひとみぼくゆう)・辻了的(つじりょうてき)といった学者との交際がにわかに活発となり、その年早くも人見を京都につかわし書物を収集させたりしています。人見は、公家の邸宅などをまわり、古典の筆写に努めていたのですが、その一人冷泉為景(れいぜいためかげ)が人見から聞いた光圀は、毎日古書をひもとき、和歌の道に励む、向学心旺盛な青年でした。二十歳を迎えた年の七夕の日には、大志をいだいて学問の成就を天に祈るほど、精神的に飛躍をとげていたのです。
 このような光圀の姿は、つい三・四年前の小野角衛門の諫言からは想像できないことでした。やがて小野が職を辞して水戸へ帰ることになったとき、光圀は「忘るなよつらねし袖をわかつともおもふこころははなれし物を」と歌を詠んで送りました。少年時代に受けた深い恩を決して忘れていませんでした。
 光圀は、日本でも「史記」のような立派な歴史書があれば、後世の人々を発奮させることができるだろうと考え、三十歳からそのための編さん局を設けました。はじめ駒込の別邸におかれましたが、十五年後に小石川の本邸に移し、彰考館と名付けられました。京都をはじめ各地から優秀な学者を多数まねいて編集に当たらせたのです。その歴史書は「大日本史」として有名ですが、完成したのは何と明治三十九年のことで、実に二五○年の歳月を要したわけです。しかしそれは、強い精神力をもった光圀にいかにもふさわしい大事業だったといえましょう。
 茨城大学教育学部教授 鈴木暎一

水戸黄門は全国漫遊はしていないが、その本質を知る

TV放送で依然人気のある「水戸黄門」。
 実際には、全国漫遊をしていないことは周知のとおりであるが、何故このように全国を漫遊する物語が出来たのであろうか?
 中央学院大学重松一義教授書から紹介することにしよう。

 ズハリ言って、日光・潮来・房総・伊豆・鎌倉等関東一円の小さな旅はあるが、全国を漫遊したことは一度もないのである。
 ただ、このなうな筋書きの話しが、後の世になってできるそれなりの理由と人柄があったといえる。
 水戸黄門は9歳で元服して光国(のち光圀)というが、「桃源遺事」(とうげんいじ)という水戸藩の史書では、ヤンチャで勇気ある少年であったことが記されている。
 特に13歳から17歳ごろまでは、当時江戸で流行る「かぶき者」(異様な風体の遊び人風)の仕草を真似、夜遊びに出かけ、三味線を弾いたりで、『小野諫草』(おのいさめぐさ)でしられるように、家臣小野角右衛門言員(ときかず)がこれを強く諌めたが、効き目がなかったといわれている。

 このため「権現様(家康)の御孫様とは思われぬ」と、悪い噂の非行少年のようなものであった。

 しかし18歳のとき、司馬遷の『史記』の『伯夷伝』(はくい)に感銘、父子の道・聖賢の道が何であるかにハッと目覚め、深い反省とともに学問の道へと大きな変身をみせているのである。
 
 30歳となった明暦3年(1657)のとき、駒込に彰考館(しょうこうかん)と名付ける歴史の編纂所を設け、、『大日本史』の編纂を始め、「歴史を通じて正邪のけじめ、君臣のけじめをつける」という考え方を一層固めていっている。

 光圀は34歳のとき、父頼房(よりふさ)の跡を継ぎ、第二代の水戸藩主となり、約30年間水戸藩を治めているが、この間も『大日本史』の編纂継続のほか、民情をよく察知し、今に残る笠原水道を城下に引き入れたことは、水戸の人が永く讃えている功積なのである。
 このほか、いかがわしい寺社の取り壊しや、率先して節約に励んだことも知られている。

 晩年、隠居して「黄門」「こ゜老公」などと呼ばれ、今日のTVにも「天下の副将軍水戸光圀公なるぞ」と格さんが葵のご紋が入った印籠を掲げ、悪代官を懲らしめ、哀れな農民や身売り娘を助けなど、『水戸黄門諸国漫遊記』として画面で大活躍しているが、これは隠居の光圀を水戸天神林の百姓爺とし、従者の佐々木助三郎・渥美格之進を「助さん」「格さん」とした、明治21年(1888)ごろの大阪講談師玉田玉智(たまだぎょくち)の作とも、明治37年(1904)ごろの同じく大阪の講談師日本亭丸勝の作ともいわれるものなのである。

 それはいうまでもなく『大日本史』の編纂を手伝い、諸国に史料の収集に出かけた人をモデルに、庶民が期待する名君像、“正義の味方光国”らしい善を勧め悪を懲らしめる理想のご政道を、漫遊記とした作り話なのである。